西ブログブルク公国

皇室、華族、王侯貴族、政治経済、時計、万年筆、トミカ、トイガン、家庭菜園、糠漬けの話題など、何でもありのブログです。

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学習院大学

皇族の方々が進学する大学として有名な学習院大学
現在は私立大学ですが、日本国憲法により華族制度がなくなるまでは、
華族の子弟教育を担った宮内省管轄の官立学校でした。

弘化4年(1847年)、公家のための学習所として京都御所日御門前に
学習院」が開講されました。その後、明治9年(1876年)、華族会館が
経営する私立学校「華族学校」として東京で発足しました。
そして、明治10年(1877年)、明治天皇皇后親臨の元、開校式が行われ、
学習院」の勅額を下賜されました。
明治17年(1884年)に宮内省管轄の官立学校となりました。

華族の子弟は原則として無償で学習院に入ることができたそうです。
しかし平民は、ごく限られた人数しか受け入れられず、授業料は有償で
あり、幼稚園や高等科への入学は禁止されたそうです。
(後に制限は緩和されたそうです)。

太平洋戦争後、華族制度が無くなり、学習院は私立学校となりました。

ところで、現在でも皇族の方々は学習院で教育を受けています。
もちろん入試はなく、幼稚園から大学までストレートに進学するようです。
私は高校時代、皇族は大学受験がなくていいなぁと羨ましく思ったもの
ですが、別の見方をすると、皇族は学習院以外に選択肢がないとも言え
ます。そう考えると、能力に応じて好きな学校を選べる一般国民は幸せ
なのかもしれません。

学習院 Webサイト
http://www.gakushuin.ac.jp/index.html

<公爵の独り言>
同級生に皇族とかいると気苦労が大変そう・・・。
ところで、学習院での挨拶は「ごきげんよう!」というのは本当なのでしょうか?
  1. 2004/12/26(日) 15:17:39|
  2. 天皇・皇室・皇族・華族
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:28
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コメント

公爵閣下
学習院は今では法的には普通の私学のはずですが
生粋の庶民の私などには、何となく高貴な雰囲気を
感じるというか、特別な学校に思えます。
ただ、以前皇室関係の番組で知ったことなのですが
皇太子殿下は無試験ではなく、推薦で大学に進学されたそうです。
(意外だったので、印象に残っておりました。)
ですから、皇族というだけで大学まで無試験で入学できるということは
現在ではないのではないでしょうか?
(幼稚園や小学校などは、おそらく無条件で大丈夫だと思いますが)
たしか、天皇陛下は大学時代に公務のために
単位が不足になり自主退学され、以後は聴講生になられたそうです。
個人的には、公爵閣下がお書きになられたように
事実上、学習院しか選べないのですから
もう少し融通というか、配慮が欲しいものだと思います。
(天皇陛下の場合、明らかに公務が原因でしたから
補習くらいは考えても良かったのでは?と
事情を知ったときに思いました。)
  1. 2004/12/26(日) 15:39:39 |
  2. URL |
  3. AMU #79D/WHSg
  4. [ 編集]

AMU様
早速のコメントありがとうございます。
>皇太子殿下は無試験ではなく、推薦で大学に進学されたそうです。
なるほど。推薦もいわゆる「指定校枠」みたいな感じなんですかね?
世間的には、一応無試験ではないということで・・・。
>たしか、天皇陛下は大学時代に公務のために
>単位が不足になり自主退学され、以後は聴講生になられたそうです。
宮内庁ホームページの天皇皇后両陛下のご略歴
http://www.kunaicho.go.jp/02/d02-01.html
で、天皇陛下の欄が「学習院大学教育ご終了」となっているのは
自主退学されて、聴講生となったためなんですね。なるほど!
  1. 2004/12/26(日) 15:47:41 |
  2. URL |
  3. 公爵 #79D/WHSg
  4. [ 編集]

公爵さま
うちのブログで
戦ってくださって
ほんとうに
ありがとうございます
公爵さまがひごろ
おっしゃられている
ノブレス・オブレージュを
実践されていることに
深く感謝し尊敬の意を表します
このように
ひごろ糠床を愛す穏やかな公爵さまが
リップさまとともにわたしの名誉を
守ってくださることに
深い恩寵を感じます
ありがとうございます
  しゅがー(ちびまる商会)より
  1. 2004/12/26(日) 16:48:06 |
  2. URL |
  3. sugar #79D/WHSg
  4. [ 編集]

公爵さま
ただいま銭湯より帰りました
ああ、ぬくとい~
わたしはここ数年知り合う方が
学習院関係の方が多くなりまして
き○さまから
「あのう、ゆーみんてなんなのでしょうか?」と
きかれた知人がいます
またき○さまのだんなさまが
あそこのおたくはじまっていらいの
ともだちのうちでがいはくという
うらばなしもいっぱいきいてしまいました
あそこのおたくは
ごちょうなんも
「すきでこのうちにうまれたのではないのだが?」
と正直なところだとおもいます
だからこそいっしょうあそこのおたくですごすので
ほんとうにすきな方とご結婚なさりたかったかと
おもいます
権利も高いとそれに正比例して義務も高くなります
あそこのおたくはこの国でいちばん義務が重いのです
帝王学というのは
その思い義務につぶされぬよう
また権利を正しく主張できるよう
その中で個人としての存在を最大限に守るための
とても難しい学問だとおもいます
  しゅがー(ちびまる商会)より
  1. 2004/12/26(日) 19:40:44 |
  2. URL |
  3. sugar #79D/WHSg
  4. [ 編集]

しゅがー様
ちびまる商会ブログの荒らしについては、本当にお気の毒です。
常識のわからない方がいるものですね。残念なことです。
私は名誉を重んずる人間です。もちろん、他人の名誉も尊重します。
故に、人の名誉を傷付けることを肯定することはできません。
私は秩序と規則を重んじる人間です。
故に、規則を破り、秩序を乱すことを放置することはできません。
当然のことを申し上げただけです。
天網恢々疎にして漏らさず。
悪いことをすれば必ずその報いはあるのです!間違いなく!絶対に!
  1. 2004/12/27(月) 00:25:03 |
  2. URL |
  3. 公爵 #79D/WHSg
  4. [ 編集]

しゅがー様
皇族、特に内廷の方は窮屈でしょうね。
しかし、その重圧に負けないよう頑張って頂きたいと思います。
  1. 2004/12/27(月) 00:38:26 |
  2. URL |
  3. 公爵 #79D/WHSg
  4. [ 編集]

>ごきげんよう!
ウチの彼女の高校もそういう挨拶だったそうだ。
雅子妃の出身校である雙葉学園も然り。
という事は学習院も当然そうだろうな。
  1. 2004/12/27(月) 22:59:46 |
  2. URL |
  3. 宣伝相 #79D/WHSg
  4. [ 編集]

>{iqハvァ{孀オq輌トq`wペOqヒu
  1. 2004/12/27(月) 23:52:20 |
  2. URL |
  3. K-taro #79D/WHSg
  4. [ 編集]

宣伝相殿
ごきげんよう!
  1. 2004/12/28(火) 00:36:55 |
  2. URL |
  3. 公爵 #79D/WHSg
  4. [ 編集]

K-taro様
なんか文字化けしておりますが、
>別の見方をすると、皇族は学習院以外に選択肢がないとも言えます。
なるほどぉ...そのように考えたことがなかったので、目から鱗がおちる思いです。
とコメント下さったのですね。ありがとうございます。
  1. 2004/12/28(火) 00:38:37 |
  2. URL |
  3. 公爵 #79D/WHSg
  4. [ 編集]

公爵閣下におかれましてはご機嫌麗しゅう。辺境伯です。
「ごきげんよう」の話ですが、何を隠そう、実は私は学習院大学卒業なのです。ただし、大学から受験で入った者ですが・・・。
そこで私も疑問だったので在学時に内部進学者に聞いてみたところ、ごきげんようは主に女子部(学習院では中学進学時から男女別学になります)のあいさつだそうです。男子部ではまず使われないとか。
実際、大学祭の時に女子部出身の女の子が高等部の先生に対して別れ際に「ごきげんよう。」と言ってました。
あと、皇室関係者の方々はほぼ無試験進学です。
ほぼ、というのは高校・大学各進級時に進級テストのようなものがあり、あまりにも成績の悪い人は進級できない仕組みになっているのですが、宮様のおられる学年のときだけ基準が低くなってみたり・・・。いえいえ、何も私は知りません。ハイ。あくまで学内のウワサです。ウワサ。
ちなみに学内で人気が高いのは皇太子殿下や高円宮ご夫妻でしょうか。悪いお話を一度も聞いたことがありません。ただ、高円宮様は先ごろお若くしてお亡くなりになり本当に残念です。あんなに気さくで飾らない殿下はめったにいなかったのに・・・。
  1. 2004/12/28(火) 00:51:24 |
  2. URL |
  3. まっぴー #79D/WHSg
  4. [ 編集]

まっぴー辺境伯様
これはこれは。ごきげんよう!ようこそ参られた。
まさか辺境伯閣下が学習院だったとは・・・。
良いお話を聞かせて頂きました・・・と言いたいところですが、
>ちなみに学内で人気が高いのは皇太子殿下や高円宮ご夫妻でしょうか。
>悪いお話を一度も聞いたことがありません。
ここで秋篠宮殿下と紀宮殿下の名前が出てこないのは・・・ん?
あ、貴様何者だ!あ!・・・・PAM!PAM!・・・。
  1. 2004/12/28(火) 00:57:47 |
  2. URL |
  3. 公爵 #79D/WHSg
  4. [ 編集]

私の同級生は3年間「拙者」で通しました。
  1. 2004/12/28(火) 01:26:42 |
  2. URL |
  3. MRPI #79D/WHSg
  4. [ 編集]

文字化け、大変失礼いたしました。(滝汗)
このコメントも文字化けしてたらどうしようかと不安ではありますが...
まさに、殿下が解読された通りでございます。
嫌がらや荒らしの類いではございませんので、なにとぞお許しを~
  1. 2004/12/28(火) 10:30:08 |
  2. URL |
  3. K-taro #79D/WHSg
  4. [ 編集]

MRPI様
初めまして。宜しくお願いします。
ところで、このコメントは誤爆ですか・・・?
  1. 2004/12/28(火) 12:43:21 |
  2. URL |
  3. 公爵 #79D/WHSg
  4. [ 編集]

K-taro様
幸いにも「LOVELOGコメント通知メール」では文字化けしていなかったので。
ただ、そのメールの一部も文字化けしていたので、LOVELOGの不具合かも
しれませんね。
  1. 2004/12/28(火) 12:45:23 |
  2. URL |
  3. 公爵 #79D/WHSg
  4. [ 編集]

公爵閣下、こんばんは!
>ここで秋篠宮殿下と紀宮殿下の名前が出てこないのは・・・ん?
いえいえ、紀宮殿下は真面目でいつも微笑んでいる方で・・・まあ、皇太子殿下の方が恐れ多くも比較して優秀な成績を修められたというお話で。正直なところ私は特別優秀だった(他大学で講師をされるくらいの)皇太子殿下と比較されてしまうのはお気の毒と思って聞いていましたが。
秋篠宮殿下については、・・・えー。。。公爵閣下に拝謁する機会がある時にはいくらでもお話を(危)。
まあ、皇族の枠に縛られない、ユニークな発想をお持ちになった殿下なのですよ。ハイ。
皇太子殿下は雅子様とともに本当に人気がありますよ。真面目にして勤勉、成績もホントのホントに優秀、男らしく、また、思いやりもある方で、「間違いなく名君になられるお方」とスゴク評判です。
皇太子ご夫妻のことを学内の人は親しみを込めて「皇太子さまと雅子さん」と言うことが多いですね。愛子親王殿下がお生まれになったときは、学内で人に会えば男女問わず「良かったね。」と必ず話題にのぼった位です・・・。
以上、ブログに載せてお話できる範囲で辺境伯より公爵閣下にご報告でした~。
  1. 2004/12/28(火) 23:23:21 |
  2. URL |
  3. まっぴー #79D/WHSg
  4. [ 編集]

まっぴー辺境伯閣下
追加情報ありがとうございます。
なるほど、皇太子殿下が飛び抜けているのですね。
私ごときが皇太子殿下を評価することなど不敬かもしれませんが、
これからが楽しみです。
皇太子殿下のような方がいて、秋篠宮殿下のような方もいる。
いろいろなタイプの人材を用意しておくことにより、様々な環境に適応させ、
それにより皇室の血統を維持しようと言う深謀遠慮ではないでしょうか?
(と、秋篠宮殿下についてはフォローしておきます・笑)
これからも皇室関連記事を時々UPしていくので、公開できる範囲で
いろいろ教えて下さい。
どうもありがとうございました。
  1. 2004/12/29(水) 00:01:17 |
  2. URL |
  3. 公爵 #79D/WHSg
  4. [ 編集]

どんな馬鹿でも皇族なら無条件で入れるという時点で、レベル的には
たいしたことない学校なんだなという印象は拭い去れない。
  1. 2005/05/27(金) 13:55:23 |
  2. URL |
  3. 馬鹿者 #79D/WHSg
  4. [ 編集]

馬鹿者様
そもそも学習院と旧帝国大学とは設立目的が違うのですから、レベルを比較しようがないと思います。
  1. 2005/05/28(土) 00:58:03 |
  2. URL |
  3. 公爵 #79D/WHSg
  4. [ 編集]

公爵様、
ものすごく深い知識と、皇室に対する理解には脱帽いたします。
私が知っている学習院の話題をお伝えいたしますね。
まずはじめに、明治天皇陛下が学習院初等科にご在学中、教科書などの詰まったバッグを重そうにお持ちになっているのを見かねたその当時の首相「伊藤博文」がランドセルをお持ちになるようにと進言したと聞いています。
まさに、ランドセルの歴史も陛下より始まったとはいざ知らず、大変興奮して聞いていたのを覚えています。
それから制服に関してですが、明治時代の制服などはフランス製だったようです。その当時からハイカラだったことが伺えますね。
まだまだお話はつきませんが、このような素晴らしいページに書き込めるチャンスを与えてくださった公爵様に感謝いたします。
これからも楽しみに拝見させてくださいね。
それでは、
エリーシャ
  1. 2005/09/23(金) 19:23:08 |
  2. URL |
  3. エリーシャ #79D/WHSg
  4. [ 編集]

エリーシャ様
初めまして。我がブログ自治領(近々公国へ昇格予定)へようこそ。歓迎致します。お褒め下さり恐縮ですが、各国の王侯貴族/皇室についてはまだまだ上っ面しか知りません。ここで皆様から頂戴するコメントなどでいつも勉強させて頂いております。
たしかランドセルは元々はオランダの物だったと聞いたことがあります。「ランドセル」の「ラン」は「蘭(オランダ)」に由来しているとか(もしかしたら記憶違いかもしれません)。
これからもお気軽にお立ち寄り下さい。お待ちしております。
  1. 2005/09/23(金) 19:36:19 |
  2. URL |
  3. 公爵 #79D/WHSg
  4. [ 編集]

公爵様、
言葉が足りませんでしたね、失礼しました。
そうですね、オランダが発祥ですが、それに手を加え、陛下に合うように作られたのが今のランドセルの原型だということです。
ランドセル-ransel(蘭語)
私も資料に目を良く通しておきたいと思います。
ご返答いただきありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。
エリーシャ
  1. 2005/09/23(金) 19:54:31 |
  2. URL |
  3. エリーシャ #79D/WHSg
  4. [ 編集]

お初におめもじ仕ります。紫水と申します。
公爵さまの文章を拝見して感服しております。駄文とは思いつつここに認めますことをお許しください。
私は学習院に在籍しております者なのですが「ごきげんよう」と言う挨拶は公式な場でしか使いません。
たとえ男子でも公式な場所では「ごきげんよう(おはようございます・こんにちわ・さようなら全て)」を使用しております。
普段の学生生活の中ではふざけて「ごきげんよう」と言いますが殆ど使わないのが現状です。
学習院には女子同窓会部の常磐会という組織がありますが、その組織の中心核におはせられる方々は殆どの席で「ごきげんよう」を使用しております。その方達は生粋の学習院生(幼稚園から女子短大まで)で家柄も良くていらっしゃいますから当然と言えば当然なのかもしれません。
お目汚し失礼いたしました。
  1. 2005/11/12(土) 16:26:40 |
  2. URL |
  3. 紫水 #79D/WHSg
  4. [ 編集]

紫水様
初めまして。我が公国へようこそ。歓迎致します。
現在、私の身近に学習院出身者がおりませんので、在籍している方のコメントは貴重です。ありがとうございます。学習院の謎がちょっと解けたような気がします(笑)。
  1. 2005/11/12(土) 16:43:42 |
  2. URL |
  3. 公爵 #79D/WHSg
  4. [ 編集]

浩宮徳仁親王(皇太子)の逸話

 私・浜崎秀達が学習院大学4年生のとき、浩宮徳仁親王(後の皇太子)は、学習院高等科から学習院大学文学部史学科の1年生に進学してきた。私は、卒業後も3~4年間、学習院大学演劇部のアトリなどによく顔を出していたので、浩宮に何度か出くわした。
 当時は、浩宮が進学してくるというので、輔仁会館が改築されたり、学習院百年事業として黎明会館が新築されたりした。当時、各クラブはばらばらの場所にあったが、これらをまとめて、新築された棟に引っ越しさせられた。現在も、拡張し続け、教室や研究室のため建物を次々に新築し、学生数も増やしている。
 講堂の裏にあった音楽部の部室も、浩宮が音楽部に入るということで、予算も大幅にアップされ、部室も特別製のものとなった。
 学習院大学の西門を俗に通用門といい、この門は目白駅に近いことから、学生は専ら通用門を通っていたが、浩宮が進学してからは皇宮警察が警護するようになった。正門も含めて、大学の各要所に皇宮警察が私服姿で立っていた。浩宮には、お付きの人が常に5~10人付いている上、常時、数百人の皇宮警察が学内に詰めていた。
 浩宮の登下校ともなると、正門に通ずる道に侍従達がずらりと並び、送迎の車を送り迎えしていた。まるで、昔のお殿様のようであった。
 噂によると、浩宮の財布には、常に千円しか入っておらず、その千円がなくなる度に、お付きの人が浩宮の財布に千円しか入れてくれないそうである。また、浩宮は、輔仁会館の一階にある学生食堂で、いつも百円そばしか食べないそうである。その際、お付きの人は、食堂の出入り口で待っていた。
 演劇部の後輩・古藤芳治(昭和55年文学部史学科入学)によると、授業中いつも、お付きの人は、教室のドアの前で立って待っているそうです。また、演劇部の後輩で学習院高等科から進学してきた柴田哲(昭和52年入学)によると、浩宮は、中等科時代に、同級生に「天皇制は世襲でけしからん」と言っていじめられたが、このとき、浩宮は、「自分の意思で天皇家に生まれたわけではない」と言ったそうである。
 浩宮は、そんなに特別知能が高くはないそうである(噂では、IQ130)。浩宮は、いつもおっとりし、のんびりした感じであった。特に悪い噂も聞いたことはない。

私の知己のある学習院大学演劇部の有名人

 「渡る世間は鬼ばかり」の角野卓造(昭和42年入学)さんは、学習院大学演劇部の先輩です。現在、「夢の痂(かさぶた)」(6月28日~7月23日新国立劇場)の舞台に出演中です。角野卓造さんの学習院大学演劇部出身の文学座の後輩・古藤芳治(昭和55年入学)は文学座座員を辞め、フリーになりました。また、田中明生(夫)(昭和56年入学) は、文学座座員を続けており、昨年、映画「アイ・ロボット」の日本語吹き替え版でロボットの声の役をやりました。今年は、3月に英国ホンダCM、7月公開の映画「8.1」に出演、「シルミド」「らくだの涙」の日本語吹き替え版で声優をやりました。
 NHKのエグゼクティブ・ディレクターの黛りんたろう(凛太郎)(昭和47年入学)(「題名のない音楽会」の黛敏郎の長男)さんは、学習院大学演劇部の先輩です。黛凛太郎先輩は、「すずらん」「花の乱」「義経」(平成17年大河ドラマ)「秀吉」「毛利元就」「RAMPO」などを演出しました。「RAMPO」では、経済学部の私の同級生・奥山和由と争い、残念でした。
 「毛利元就」 では、学習院大学演劇部の先輩(同い年)・大森博(昭和48年入学)が吉川の家老の役で出演しました。大森博先輩は、映画「突入せよ!『あさま山荘』事件」に長野県警の課長役で出演しました。佐々(役所広司)に難癖を付けているので、すぐ分かります。自由劇場時代の仲間・串田和美(男)もこの映画に出演している。同様に、自由劇場時代の仲間・江本明は、今年のNHK大河ドラマ「功名が辻」で秀吉役をやっています。
 私(昭和50年入学)は、1年生の時、この大森博の指導を受けました。翌年、私は、宮田慶子(昭和51年入学)ら新入生の指導をしました。宮田慶子は、青年座の演出・脚本家で、今年、美川憲一主演の「越路吹雪物語」を演出しました。
 なお、真田徳明は、昭和57年入学で、古藤芳治(昭和55年入学)や田中明生(夫)(昭和56年入学)の後輩に当たります。

真田裕貴選手は、真田幸村の4男・権左衛門之親の末裔か?

 プロ野球の真田裕貴選手は、薩摩落ちした真田幸村の末裔とは何の関係ありません。少なくとも、真田幸村の五男・瓢左衛門の末裔である真江田一門には、真田という苗字の者はいません。
 上田利明という方が、インターネット上で、真田裕貴選手が真田幸村の末裔という話を薩摩落ちに結びつけていますが、全くのでっち上げです。以前にも真田裕貴選手が薩摩落ちした真田幸村の末裔と嘘の書き込みをしていました。これについては違うと訂正を申し入れたのですが、之親を知らないこの方は、依然として真田裕貴選手を真田幸村の薩摩落ちと結びつけています。今年の3月、長野の上田という方が私の勤務先にしつこく誹謗・中傷の電話をし、初対面の人間に対して失礼な態度をとるだけでなく、一方的に決めつけたりしました。希望的観測で、自分に都合のいい話を、強引にでっちあげる方のようです。この方と同一人物かもしれません。
 私は、いろいろな本で調べたり、親戚の伝を使って資料を取り寄せたり、各方面に問い合わせたり、父親の話を口述筆記したり、実際に取材したりして、客観的に記述しました。しかし、この方のは、七文会メンバーである新村功さんのホームページ(kamomax探偵事務所)に掲載した私の記事(真田幸村の薩摩落ち伝説)や島村(七文会メンバー)さんのホームページ(真田氏の館)の真田幸村生存説を真似した上、ろくに取材もせず、適当に話を捏造しています。ただし、新村功氏には、掲載を許可しています。
 真田博明(真田六文会会長)氏よりいただいた之親の系図に真田裕貴選手の祖父・明人氏は載っていませんでした。これにはそれぞれの土地の本家しか書いていません。真田博明氏は昨年亡くなりました(享年96歳)が、今年その長男・博通氏から寒中見舞いをいただきました。真田博明氏は之親の分家の系統ですが、之親の本家の方が詳しい家系図を持っていると思うので、真田博通氏に問い合わせ、之親の本家の方を紹介してもらった方がよいです。
 真田幸村研究の第1人者である小林計一郎・信州大学名誉教授(長野県郷土史家協会名誉会長)によると、江戸の徳川幕府に反発する関西では、徳川幕府を苦しめた真田幸村の人気は高く、真田幸村の子孫と名乗る人がよくいるが、全て嘘だそうです。明治維新の時、大部分の苗字のない人が苗字を付けたり、元々苗字があるにも関わらずわざわざ別の苗字に替えたりした人がいます。私の曾祖父も真江田姓から難波(島津の重臣)姓に変え、造士館塾頭(今の鹿児島大学学長に該当する)になりました。そういうこともあるので、一度調べた方がよいかもしれない。なお、小林計一郎は、俳人・小林一茶の子孫で、その関係の著書も多い。

真田幸村の4男・権左衛門之親の家系について

 之親は、真田幸村が和歌山の九度山に蟄居中に百姓の娘に産ませた子で、大阪の陣の前に生まれているが、2年後、讃岐国(=今の香川県~兵庫県の対岸の県)石田(細川)民部大輔国弘に託され、成人して権左衛門と称した。しかし、「全讃史」では、「大阪城を脱出」した幸村が、その2年後に設けた男子としている。
 真田権左衛門之親──1615年~1670年。真田幸村の4男として生れる。大阪落城後細川国広を頼る。之親には一女あり、国広孫の太夫が之親の娘を娶ったという。之親の長男義国から、春行、利康、康春、斉弘、康国、弘篤、弘包、弘括、長八郎、義光、義博、英太郎へ継がれる。香川県長尾町の真田墓所に眠る。
 之親の一族は明治になって真田の姓に復したが、その庶流は愛媛県にもいる(学習院大学演劇部の後輩・真田徳明がそうである)ので、兵庫県にいてもおかしくはない。なお、この系統は女性が多いため、真田姓は限られてくる。
 真田博明氏によると、松代真田家(真田信幸)に記録が残っているそうです。

真田博明氏には感謝しています

 平成2年、NHKの「歴史誕生」で、三代英雄(源義経、坂本龍馬、真田幸村)不死伝説の一つとして、真田幸村生存説が放映された際、真田博明氏の尽力により、鹿児島県揖宿郡頴娃町大字別府字大川に住んでいる真江田幸一(父・浜崎秀男の再従弟)とその母・フク(字幕は妻・フクと間違っていた)が映像で紹介された。両名とも頴娃町で評判になったと喜んでいました。近年、両名とも亡くなったが、妻・のり子は存命です。魚屋は廃業しました。幸一の二人の息子も元気です。今では、妻・のり子と二人の息子の家族しか、真江田姓の者はいません。真田博明氏には感謝しています。
 この際、真田博明氏のご先祖・之親を紹介させていただきました。

真田幸村の5男・瓢(ひょう)左衛門の家系について

 私・浜崎秀達の家は、真田幸村の5男・瓢(ひょう)左衛門の嫡流です。江戸時代については、嫡流しか分かりません。しかし、江戸時代後期の真江田菊蔵の子孫については、ほとんど分かっています。この一族は文武両道に秀でています。
 この瓢左衛門(ひょうざえもん)の後、周八、佐平次、菊蔵、武右衛門、佐平次(2世)、菊蔵(2世)と続いた。真江田家は、幕末になって藩主から苗字帯刀を許され、先祖真田の名前をもらって、真江田と名のるようになった。
 江戸時代末期、真江田菊蔵(2世)の子供には、市左衛門、難波周八(2世)、三左衛門のほか、児玉ヨシなど数人の女子がいた。長兄の一左衛門(故人)に実子がなかった。周八の子は、常幸、元幸、秀幸、幸世、幸省、利幸、テイ(夭折)である。三左衛門の子は吉村で、孫が幸一である。幸一には2人の息子がいる。
 難波常幸大伯父は、カナダに移住し、その娘・幸子は英国系米国人と結婚した。
 難波秀幸(物故)は、浜崎シゲの婿養子となり、浜崎本家を継ぐため、浜崎姓に改姓、その子は、昌幸(夭折)、秀男(物故)、春子(物故)、昌隆(戦争中、補給船に乗っているとき、南太平洋上で、アメリカ軍の潜水艦に船が沈められ、軍属として戦死)、昌彦(物故)、昌治(存命中)である。浜崎家は江戸時代に山中家から分家した石脇(こくぶ)家が明治になって浜崎と改姓したものである。
 父・浜崎秀男の従弟・難波幸隆(幸世の子)は、鹿児島で学業成績が2番を大きく引き離してダントツの1番だったので、当然、東京大学に入学するものと思われていたが、東京工業大学(当時は東京高専と言っていた)に入学した。在学中に亡くなったので、あまりに頭が良すぎたため、毒殺されたという噂がある。
 難波利幸(物故)大叔父には、フィリピンの王族の女性との間に秀男、秀達(既に日本に帰化している)がおり、帰国後、モトと結婚し、周子、芳幸、昌幸(私と同じ年だが、父・秀男の従弟である)がいる。鹿児島県揖宿郡頴娃町大字別府字大川に住んでいるのは、難波昌幸だけである。

そのほかの真田幸村の息子

 真田大助幸昌──1600年~1615年、幸正、信昌、幸綱、治幸、信濃屋長兵衛、長左衛門。真田幸村の長男として生れる。慶長7年(1602年)に紀伊九度山で生れたともいわれる。慶長5年とも7年ともいう(諸説あり)。『仙台真田系譜』によれば慶長6年(1601)7月24日生まれとある。『蓮花定院書面』によれば慶長7年(1602)生まれ。大助の長男に平右衛門元直がいたともいう。母は大谷吉継の娘(竹林院)である。冬の陣で真田丸における戦闘で東の木戸から500の兵を率いて打って出て、見事な初陣を果たす。冬の陣の和議成立後、大坂城へやってきた原貞胤を幸村が酒宴に招いたときに大助が曲舞を舞ったエピソードがある。大坂夏の陣では、5月6日の誉田の戦いで活躍。元和元年(1615年)5月7日の茶臼山の戦いでは前線に赴いており、父とともに討死することを望んだが、父の厳命により大阪城へ戻り、淀殿や豊臣秀頼の身辺にあった。慶長20年(1615年)5月8日、豊臣秀頼ら主従が山里曲輪に追い込まれた際、秀頼の側近毛利勝永(吉政)から脱出を勧められたが肯んぜず、結局大阪落城のとき、豊臣秀頼に殉じ自刃。享年は13歳とも15歳ともいわれる。大阪落城後は落ち延び、泉州堺に住んだともいう。
 真田大八守信──1612年~1671年、沖之丞、久米之介、大介(片倉守信)。真田幸村の次男として生れる。母は大谷吉継の娘(竹林院)である。慶長17年(1612年)に九度山で生れた。子供のとき京都で印地打ちで寛永10年(1633年)5月5日に没したと記録されているが、実は姉の阿梅の嫁ぎ先の片倉氏に引き取られ、寛永17年(1640年)片倉久米之介守信と名乗って360石を知行された。仙台藩士に列し、江戸御番組、馬上役となる。明暦3年(1657年)公儀使・江戸留守居役になるが讒言があり罷免。寛文3年(1663年)武頭(足軽隊長)で復職。守信は、同年10月6日、59歳で没したが、守信より8代目の幸歓より真田姓に復した。
 真田左次郎幸信──1615年~1667年、三好左馬之介。真田幸村の3男として生れる。母は三好秀次の娘(隆清院)。元和元年(1615年)7月14日京都の梅小路家の知人宅で生れた。父真田幸村は5月に戦死している。当時、隆清院と娘御田姫は大阪の陣に伴い残党狩りを避けて、故秀次の母(瑞龍院)の許に身を寄せていたというから、幸信は曾祖母の居所で分娩されたのであろうか。寛永3年(1626年)、姉の御田姫の嫁ぎ先の岩城氏の許に引き取られ、岩城宣隆の養子になり三好左馬之介幸信と称した。出羽亀田藩に仕え、380石を給せられた。寛文7年(1667年)に53歳で死去した。亀田の妙慶寺に位牌や墓がある。母は三好秀次の娘(隆清院)、一説には三好清海(女であるとの説から)という。同じく御田殿(なほ)も母は三好秀次の娘である。

真田幸村の娘

 長女・すへ──信州上田で生まれ。母は家臣堀田作兵衛興重の娘(妹)。祖父堀田作兵衛興重の養女として小県郡長窪の郷土石合十蔵道定に嫁ぐ。寛永19年(1642年)死去。
 次女・於市──信州上田で生まれ。母は高科内記の娘。一説に堀田興重の娘(妹)。慶長5年(1600年)12月に父、幸村が幽閉地の紀州九度山に伴った唯一の子女である。その後、九度山において早世したとされている。
 三女・阿梅──慶長9年(1604年)九度山で生まれる。母は大谷吉継の娘。一説に高科内記の娘。滝川伊予守一益の孫の滝川三九郎一積の養女?大坂の陣で片倉重奈綱の陣に投降(12歳)。元和6年(1620年)重綱の後室となる。(17歳)慶安元年(1648年)幸村の菩提を弔う為、月心院を建立。天和元年(1681年)78歳で死去。菩提寺は当信院。家紋は、真田六紋銭。
 四女・なほ(御田姫)──御田姫(なほ)は、阿梅と同年1604(慶長9年)九度山で生まれる。母は三好秀次の娘。大坂の陣前、母と共に京の曾祖母瑞龍院に避難。出羽亀田藩主岩城(佐竹)但馬守宣隆に嫁ぐ。寛永12年(1635年)32歳 江戸で死去。
 五女・あぐり──九度山で生まれる。母は大谷吉継の娘。滝川一益の孫、滝川三九郎一積の養女。大坂の夏の陣後、母大谷氏と共に捕らえられる。叔父滝川三九郎の養女として蒲生氏郷の老臣蒲生源佐衛門郷喜の子郷明に嫁ぐ。寛永10年(1633年)主家である蒲生氏が断絶。日向延岡に移るが、あぐりの消息不明。
 六女・おかね──九度山で生まれる。母は大谷吉継の娘。大坂の夏の陣後に奥州白石で養育された幸村子女五人の1人。茶人の元犬山城城主・石川備前守貞清(宗林)の子、藤右衛門重正(宗雲)に嫁ぐ。京に移住した。明暦3年(1657年)に死去。
 七女・阿菖蒲──九度山で生まれる。母は大谷吉継の娘。大坂の夏の陣後に奥州白石で養育された。初め青木次郎飢右衛門室。のち片倉重綱と阿梅の養女として伊達正宗の正室、田村氏の一族、片倉金兵衛定廣に再嫁ぐ。寛文4年(1664年)死去。
 八女・某(女)<名前不明>──九度山で生まれる。母は大谷吉継の娘。大坂の夏の陣後に奥州白石で養育された。早世。「仙台真田系譜」には「貞閑早世当信寺に葬る」とあるのみ名前さえ記載されていない事から生母正室大谷氏でない可能性がある。
  1. 2006/07/07(金) 11:39:08 |
  2. URL |
  3. 浜崎秀達 #-
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浜崎秀達様
東ブログブルク公国だけでなく、こちらへもコメントを下さりありがとうございます。また興味深い話をありがとうございます。これからも宜しくお願い致します。
  1. 2006/07/08(土) 13:27:22 |
  2. URL |
  3. 公爵 #y8j/9w2E
  4. [ 編集]

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  1. 2011/09/01(木) 00:55:21 |
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